2023
05.14

なぜ石垣島に「蓬莱閣」なのか

八重山, 台湾

 戦後、米軍統治期の石垣島で「蓬莱閣」という名の料理店を開いたのは竹富島出身の前浜敏さん(1926年生)である。代々台湾出身者が経営してきたものと思い込んでいた私は、この事実に少なからず驚いた。前浜さんがご自身の店に「蓬莱閣」と命名した理由ははっきりしていない。とても重要なポイントなのに、私は探し当てることができず、今も宙ぶらりんな気持ちでいる。

 手掛かりはある。次のような一文から想像を膨らませることができるのである。

「四大料亭と称された大稻埕の江山楼、東薈芳、春風楼、蓬莱閣は台北の料理文化を牽引した」(大岡 2022:86)

 この一文は、日本統治期の台湾のことを言ったもので、蓬莱閣が台北で指折りの料理店だったことを説明している。ということは、日本統治期の台湾を知っている人なら、台北の蓬莱閣で食事をしたことがなかったとしても、蓬莱閣の前を通ったり、その評判を耳にしたりしたことがあるのではないか。

披露宴会場の代名詞格

 念のため、調べてみることにしよう。

 国立台湾図書館のデジタルデータベースで調べてみると、結婚披露宴を行う代表的な料理屋のひとつとして蓬莱閣が取り上げられていた。

台北市内の蓬莱閣で1939年に開かれた会合のパンフレット=台中市内の歴史建築「帝国製糖廠台中営業所」の展示、2023年3月8日

 『台湾婦人界』1936年11月号に掲載された記事「結納の取交はしから結婚披露宴迄の諸費用調べ」である。
 この記事の中で、披露宴の料理について記載した部分では、日本料理、西洋料理、台湾料理、支那料理の4カテゴリーに分けて料理店を取り上げており、支那料理で紹介されているのが蓬莱閣なのである。この記事によると、蓬莱閣は四川料理と広東料理を出す料理店であった。結婚披露宴は、1935年には1年で250組以上あり、1936年の場合、11月には1日10組以上だった日もあるという。

 ちなみに、同じ記事の中で、日本料理は「竹の家」と仕出しの「明石屋」、西洋料理は鉄道ホテルとカフヱ―・ボタン、カフエー・モンパリ、台湾料理は江山楼が取り上げられていた。

ビジュアル

 国史館台湾文献館の検索サイトでは、蓬莱閣が目に付くところにあったことを裏付ける資料が見つかった。

 月桂冠を宣伝するネオンサインを蓬莱閣に設置するべく台湾総督府専売局に許可を願い出た書類が残っているのである(1933年3月7日付)。配置図によると、蓬莱閣は、台北を代表する百貨店として知られた菊元のすぐそばにあり、好立地だったことが分かる。ネオンサインで広告効果を狙うのに適した場所だったということなのだろう。

 さらに、1930年の国勢調査でも蓬莱閣の名前は登場している。

 台湾総督府は1930年7月22日付の府報1013号で調査票への記入心得を公表しているが、勤務先の記入方法については、具体例として、さまざまな事業所と業種を示している。このなかに「蓬莱閣、料理屋業」とあるのである。「蓬莱閣」と聞いて、多くの人が料理を出す店と分からなければ、このように例示されることはなかっただろう。

有名店の名が石垣に・・・

 では、台北で知られた有名店の名前を石垣島に持ち込んだのはなぜなのか。

 この点を想像する時に頭に入れておきたいのは、戦前、石垣島など八重山の人たちは、進学や就職のために台湾に向かうことを特別視していなかったということである。そして、終戦によって台湾の日本統治が終わると、台湾を経験した人たちは石垣島など八重山の島々へ戻ってくる。

 以上の点を踏まえて想像してみると、台湾から戻ってきた人たちが石垣島に蓬莱閣の看板を見付けた時、台北で名の通った蓬莱閣を思い起こしたのかもしれないと思えるのである。

 前浜敏さんがどのような意図を持っていたのかは分からない。それはともかくとして、石垣島における蓬莱閣という存在は、台湾につながるイメージを放っていたのかもしれないのである。

〇参考文献

大岡響子「美麗島の味を形づくるもの 移民の歴史と多様性が織りなす飲食文化」NPO法人日本台湾教育支援研究者ネットワーク(SNET台湾)編『臺灣書旅 台湾を知るためのブックガイド A Book Guide to Taiwan』台北駐日経済文化代表処台湾文化センター、2022年、86-87ページ)

【トップ画像の説明】 前浜敏さん(左)と長女の大山幸子さん=2022年1月5日、山梨県上野原市の大山さん宅前

★松田おすすめの1冊★

日本統治期の台湾の一端に触れる

コメントは利用できません