05.09
パインで八重山とつながる土地
駅前にパイン
パイナップルを売りながら、おしゃべりを楽しむ人たちがいた。写真を撮らせてほしいと声を掛けると、きさくに応じてくれた。「ひとつおごるよ」とまで言ってくれる。2023年3月下旬、台湾高雄の九曲堂を訪れた時のことである。駅前には、パインを手にした農夫がおだやかな表情をみせたモニュメントが置かれ、パイン産地という土地柄をそのまま写し取っていた。
2023年3月と2022年9月、台湾南部のパイン産地を歩いた。八重山と台湾をつなぐパイン産業の「線」をたぐってみたいと思ったからである。
和山社区というエリアでは、集落の入り口にパイナップルのモニュメントがあった。パイナップル畑が広がっているだけだと、石垣島や西表島とあまり変わらないが、寺廟のすぐそばまでパイン畑が迫っているところをみると、違う文化圏に来たことが感じられる。
「南部の中心地」
九曲堂は1908年に官営の鉄道によって高雄と結ばれた。戦後八重山のパイン産業にも強い影響を与えたパインの専門家、渡辺正一は1939年に台北で出版した「パイン読本」(台湾園芸協会)のなかで、高雄と九曲堂の間にある鳳山のことを取り上げている。台湾のパイン産業について「鳳山はこんにち南部パイン缶詰業の中心地で員林は中部事業の中心地」と述べているのである。
幹線鉄道によって高雄と結ばれることになった九曲堂からは、製糖会社やパイン缶詰会社が私設の鉄路を伸ばしていき、原料や資材、製品を輸送していく。このようにして、九曲堂はパイン産業の拠点地域として地歩を固めていった。 九曲堂から伸びた私設鉄道が通る街に、龍目、大樹といった地域がある。この地域で生まれ育った李添忠というパイン栽培の専門家が、招かれて石垣島に赴き、八重山のパイン産業を支援した。1960年のことである。
二つの地域で
李添忠はその後、日本国籍を取得した。1998年に亡くなると、石垣島にある台湾出身者の共同墓地に葬られた。李添忠が生まれた龍目地区には、今も長女夫婦が暮らしている。李添忠が慣れ親しんであろう祖廟も、かつての同じ姿のままで今も使われていた。パイナップルは、八重山と台湾を結ぶ。その栽培技術を八重山に伝えた台湾人の家族もまた、二つの地域にまたがるようにして家族であり続けている。
【トップ画像の説明】
九曲堂駅前で販売されているパイン=台湾高雄市大樹区、2023年3月30日
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