2024
03.17

台湾と宮古島の交流で受賞 羽地芳子さん

台湾, 宮古

 沖縄県の宮古島で暮らす台湾出身者として、地元中学生の台湾交流を25年間にわたって支え続けている羽地芳子さん(花蓮市出身、台湾名:呉芳蘭)が2024年3月11日、西日本国際財団のアジア未来大賞を受賞されました。「グローバルな視点を持つ子供たちの育成」に対する取り組みが評価されたものです。ことし(2024年)は牡丹社事件の台湾出兵から150年の節目に当たり、台湾に関心を向けながら宮古島に注目している人も少なくないと思いますが、宮古島と台湾の「海続き」の関係は今も途切れることはありません。羽地さんこそが、「海続き」のかかわりを実践し続けている人です。

www.nnk-foundation.jp

西日本国際財団のウエブサイト
2024年2月7日の「お知らせ」で羽地芳子さんの受賞について説明しています。

   

宮古島の「台湾屋」

 羽地さんが営む雑貨店「台湾屋」は、宮古島の旧下地町にある。台湾から取り寄せた衣類や雑貨のほか、野菜の種子も販売しており、周囲にサトウキビ畑が広がる農村地帯らしい品ぞろえだ。

台湾屋のセールスポイントは、台湾から直に仕入れた商品の品ぞろえだ。ニンジンシリシリ(下)と竹製のかごを手にする羽地芳子さん=2020年11月16日、沖縄県宮古島市の台湾屋

 筆者が2020年11月にお邪魔した時は、「にんじんしりしり」の在庫が切れかけ、大中小合わせて100本を輸入しようとしているところだった。沖縄の家庭料理で頻繁に使われるニンジンの細長い「さきがき」をこしらえるのに使う「おろし金」である。このニンジンシリシリを、羽地さんは台北・迪化街の取引先から手に入れている。商売の付き合いは数十年だとか。羽地さんが台湾から直に手に入れる商品を扱っているところが台湾屋のセールスポイントだ。羽地さんが宮古島で商売をするようになって今年で38年である。このキャリアが自信につながるのか、

「台湾屋にしかないものを島の人たちが使ってくれるんですよ」

「お客さんが喜んで買ってくれる。内地(日本本土)に行く時、お土産に買っていく人もいるよ」

 羽地さんは誇らしげだ。


 かつては、宮古など南西諸島と台湾を結ぶフェリーで毎月のように台湾へ仕入れに行っていたという羽地さん。このフェリーが2008年に運航を停止すると、その後は飛行機に乗り換え、2、3カ月に1度は那覇空港から台湾へ仕入れに行っていた。新型コロナウイルスの影響で沖縄発着の国際線が2020年3月に全面運休すると、仕入れを輸入に頼るほかなくなり、一時は大いに弱った。

   

台湾の中学の交流

 今回の受賞では、羽地さんが宮古と台湾の交流を支援していることが評価されているが、この交流の中心となるのは、宮古島市立下地中学校が1999年との間で続けている台中市西屯区の漢口国民中学(中学校)との交流である。この交流で宮古から台湾を訪問した生徒は、交流20周年の2018年までに197人を数えた。交流は相互往来で続けられ、漢口中学校からも宮古島を訪問している。羽地さんは「見えないものがゆっくり出てくるんですよ、成長の間にね」と、台湾と宮古島の国際交流が中学生に与える好影響を長い目で見守る。


 もともとは羽地さんの個人的な思い付きだった。


 羽地さんは長男が幼いころから毎年のように一緒に台湾へ里帰りしており、長男はいつしか宮古島の友人を台湾へ連れていきたいと言うようになったという。その後、長男が下地中学校でバスケットボール部の主将を務めるようになったのを機に、台湾へ行ってバスケで交流をしたいと地元の教育関係者に持ち掛けたところ、台湾へのホームステイにまで話が発展した。


 最初のホームステイは1999年8月。羽地さんの長男を含む16人が6日間台湾に滞在した。漢口中学校を紹介してくれたのは、台湾から全日本トライアスロン宮古島大会に参加した汪士林さんだ。羽地さんは、退会で通訳ボランティアをしていて汪さんと知り合った。汪さんの娘が漢口中学校を卒業したという縁で、交流が実現した。羽地さんは「長男が、友達を台湾につれていきたいという発想だった。台湾で交流する学校を探せば、バスケットで遊ぶことができるんじゃないか、と」と振り返る。

   

台風から「台湾の森」へ

2003年9月の台風14号で、台湾屋では倉庫代わりのコンテナが被害を受けた(羽地芳子さん提供)

 交流は思いがけない形で広がっていく。2003年9月の台風14号である。この台風は宮古島で、最大瞬間風速74・1メートルを記録し、高齢の女性1人が死亡する被害が出た。羽地さん宅では、倉庫の屋根が飛ばされ、乗用車1台がぺしゃんこになったほか、「台湾屋」の商品を多数失い、約500万円の被害を受けた。


 宮古島の惨状に、台湾政府の張富美僑務委員長(当時、大臣相当)が同年12月に来島し、羽地さんら宮古地方で暮らす台湾出身者を見舞った。張委員長は「台湾屋」にも足を運び、羽地さんから直接被害の状況について説明を受けている。


 「うち(出身地台湾)の大臣が宮古島に来るのに、何も残さずに帰していいのか」


 張委員長の来島を前に、下地さんは宮古島にある沖縄県の出先機関に植樹を打診し、台湾との交流が行われている下地中学校で行うよう提案した。こうして張委員長は下地中学校も訪れ、生徒から中国語で歓迎のあいさつを受けた後、記念植樹を行った。この場所は、2005年以降は「台湾の森」と名付けられ、台湾関係者の植樹エリアとして定着していく。牡丹社事件の和解を願う「愛と和平」の碑は、台湾屏東県牡丹郷に建立されている碑と同じものが2008年に「台湾の森」に設置された(現在はカママ嶺公園に移設)。

   

究極の「草の根」

 中京大学法学部の古川浩司教授(国際関係論・境界地域研究)は、自治体による海外との国際交流について

「首脳(トップ・ダウン)のみならず草の根(ボトム・アップ)レベルの協力関係も二国間関係の深化を図るために必要」

 とその意義を説明する。日本は、台湾との間で正式な国交を結んでいないことを考えると、市民レベルの交流がとりわけ重要であることは論を待たないであろう。


 羽地さんの場合は、台湾でバスケをする機会を息子のために作ってやりたいという動機から始まっており、台湾からやってきたひとりの個人という究極の草の根レベルで種子を播き、学校間の交流を育ててきた。


 前述の通り、宮古島は牡丹社事件を語るうえで欠くことができない土地である。日本の拡張や台湾割譲といった世界史的な流れを宮古島にみることも可能だ。この「グローバルな歴史」とは対照的に、宮古島では台湾との間で「ローカルな交流」が積み重ねられてきた。ローカルだから軽んじていいと言いたいわけではない。外交というステージではなしえない関係を地道に構築してきたその主役が羽地芳子さんである。

台湾屋の前に立つ羽地芳子さん=2013年5月21日、沖縄県宮古島市

   

参考文献

  • 古川浩司「国境地域の挑戦 自治体主導の「国際政策」にむけて」(岩下明裕編著『日本の国境・いかにこの「呪縛」を解くか』北海道大学出版会、2010年)
  • 宮古島市立下地中学校編「台湾国際交流20周年 記念誌」(宮古島市立下地中学校、2020年)
  • 宮古支庁総務・観光振興課編「宮古概観 平成17年3月」(沖縄県宮古支庁、2005年3月)

   

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