2024
05.02

宮古島と台湾の話

台湾, 宮古, 牡丹社

 5月22日は「牡丹社事件紀念日」。ことしは1874年の台湾出兵から150年の節目ということもあり、これまで以上に多くの人が関心を寄せているかもしれない。

 最近、沖縄県宮古島で牡丹社事件をめぐる見逃せない動きがあった。下地中学校のなかにあった碑「愛と和平」が宮古島市内の別の場所に移転されたのである。これにより、「愛と和平」を見てみたいと思った人がアクセスしやすくなったといえる。

 では、「愛と和平」はなぜ下地中学校の敷地内にあったのだろうか。

学校交流でスタート

 下地中学校は1999年、台湾の漢口国民中学(中学校、台中市西屯区)との間で交流をスタートさせた。下地中学校の校区内に暮らす台湾出身者の働きかけがあってのことである。

 その後、2003年に台風14号が宮古島を襲った。全国歴代4位となる最低気圧912ヘクトパスカルを観測し、宮古全域に被害をもたらした。宮古島市内に住む台湾出身者も例外ではなかった。その見舞いのため、台湾の僑務委員会から張富美委員長(閣僚級)が宮古入りした。そして、台湾との交流に取り組んできた学校だからという理由で、張委員長は下地中学校を訪問し、記念植樹を行った(12月)。その場所がのちに「台湾の森」と名付けられる。

 2005年には中琉文化経済協会の蔡雪泥理事長が記念の石碑を寄贈し、除幕された(7月)。

 その後、2007年12月に台湾の屏東県牡丹郷で碑「愛と和平」が設置された。式典には、宮古島市の伊志嶺亮市長(当時)らが出席している。この翌年、同じものが宮古島に設置されることになり、設置場所として下地中学校が選ばれたのである。

 下地中学校に碑「愛と和平」が設置されることになる、以上がその経緯である。

地道な関係づくりあってこそ

 筆者の狭い見聞によれば、碑「愛の和平」の設置の在り方を問題視する声がある。「『愛と和平』は、学校の敷地内にあるため、見たくても見られない状態だった」と。しかし、以上のようないきさつから考えれば、これは見当違いだ。下地中学校に「台湾の森」があればこそ、碑「愛と和平」は宮古島で行き場を失わずに済んだのだ。

 碑「愛と和平」と下地中学校の関係から知ることができることがいくつかある。宮古島に台湾出身者が暮らしているという事実。下地中学校と漢口国民中学との間で四半世紀にわたる交流が続けられてきたという事実。

 宮古島の碑「愛と和平」にアクセスしやすくなったことを喜ぶと同時に、宮古島と台湾との間で続けられてきた地道な関係づくりを忘れずにいることが肝要だ。


写真は下地中学校の「台湾の森」に設置されていた碑「愛と和平」=2013年5月21日、2014年8月25日

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