01.05
日常か、非日常か
アイデンティティ, 八重山, 八重山の台湾人, 台湾, 土地公祭, 沖縄
石垣島のマイノリティ
「ポエ」とは、神様の意向を尋ねるために使われる半月型のものである。片面が平べったく、もう片面は丸く盛り上がっている。神妙な顔をしてポエを手にする人たちの姿は、台湾では日常的な風景である。
しかし、よその国で、たとえば、石垣島で台湾系の人たちがポエを使って問神をしていたとしたらどうか。石垣島のネイティブたちには非日常の光景と映るだろう。
台湾出身者たちは石垣島ではマイノリティである。ネイティブたちが、台湾系の人たちの胸のうちに複雑な内面があるということを意識しようと努めなければ、思い違いや無用の衝突は容易に起こりうる。台湾系の人たちは用心するようになり、自らが島の中で「非日常」的な存在とみなされることがないよう注意深くなる。その身に染みた信仰や信教を隠し、時には封印してしまうということも起こる。
(この記事は以下の4本のコラムから続くものです)
石垣島の土地公祭では、ポエを使って神様の意思を問う場面が何度かある。
台湾系の人たちはめいめいお供えを持ち寄り、土地公の神様に捧げる。土地公は満足したのだろうか。その気持ちを確かめるため、祭壇の前でポエを地面に落とす。平べったい面と盛り上がった面が一枚ずつ出れば、神様は肯定の意思を示したことになる。つまり、「お供え物に満足しましたか?」という問い掛けに「はい。満足しました」と答えたわけである。神様から「はい」の返答をもらうまで、ポエは繰り返され、土地公祭は続く。
土地公祭とポエ
ほかにもポエが登場する場面がある。
土地公祭では、向こう一年間にわたって「土地公」の世話をする「炉主」を選ぶことが通例となっている。そして、その選抜では、ポエが用いられる。「炉主」は、なりたい人が名乗り出て、そのなかから選ばれる。「候補者」たちはそれぞれポエの儀式に臨み、平べったい面と盛り上がった面が一枚ずつ互い違いに連続して出た回数を競う。ポエは、落ち方によって「否定」を意味することもあるため、人によっていきなり神様からダメ出しを食らうこともあるのだ。
炉主を決めるポエのとき、集まった人たちぐるりと取り囲んで見守る。落ち方をめぐって一喜一憂する。だれが回数を重ねるか、だれが神様のお眼鏡にかなうのか、だれに徳があるのか。みんな気になるのだ。この辺りは、実に人間くさい。2025年の土地公祭では、ポエの「互い違い」を10回連続で出した候補者がいて、ひときわ盛り上がった。「過去最多」という声まで挙がった。

目で見てわかる存在だが
石垣島の土地公祭は、集まってきた人たちの風景を一コマ一コマ積み重ね、すでに80年以上の歴史を持つまでになっている。土地公祭が行われる空間は、石垣島のネイティブの人たちは少なく、多くは台湾系の人たちである。ポエをめぐる所作も、奇異なものとは映りにくい。外国ながら、台湾らしい雰囲気が漂う。
土地公祭は年一回だけの行事で、旧暦の8月15日に合わせて行われる。私は1990年代以降、機会を見て、継続的に参加している。そこで気付くのは、台湾系の人たちがすべて土地公祭に集まっているわけではないということである。その場にいる人数から推測すると、参加していない人のほうが多い。ただ、人数は少なかったとしても、集まっていさえすれば、石垣島に住む台湾系の人たちの存在が目で見て明らかになるため、土地公祭は、石垣島で暮らす台湾系の人たちを象徴する代名詞的な儀礼とみなされがちだ。
勤務や家庭の事情で土地公祭に参加できない人もいるし、「内面」の意思に従って自ら参加しないようにしている人もいる。土地公祭を判断材料として、「石垣島に住んでいる台湾系の人」がどのような人たちなのかを一般化することはできない。たとえ、何らかの結論に達したとしても、あくまで限定的なものにすぎない。
土地公祭に参加する人たちがどういう思いで集まっているのかと同様に、参加していない人たちの胸の内、つまり、内面にも意識を向けておく必要があるのだ。
(おわり)


