2025
09.25

台南鹽水の「百年防空壕」

八重山, 台湾, 引揚, 沖縄, 疎開

 台湾とオランダの交易が始まる17世紀半ば、台湾の西海岸に複雑な入り江があったころ、「倒風內海」と呼ばれる内湾の一角に発達した街が現在の塩水です(台南市塩水区)。古い通りが今も幾筋か残され、街の歴史を感じさせています。その一角に、第二次世界大戦のころに使われていた防空壕の跡「百年防空壕」が残されています。長さは8メートル余りあり、重量感のあるレンガ造りとなっています。

石垣島から疎開

 私が塩水に行ってみようと思ったのは、かつて台湾疎開のころ、石垣島から台湾に疎開してきた人のなかには、塩水で過ごしていたことがある人いたからです。「百年防空壕」があるということは、疎開者たちは守られていたということなのでしょうか。説明板を読んでみると、異なるニュアンスのコメントが書かれていました。

 塩水には、塩水港製糖株式会社の大型煙突が2基あったことから、第二次世界大戦中には岸内製糖工場が重工業の拠点と誤認され、米軍は集中的に爆撃した。1945年6月には焼夷弾の攻撃があり、塩水街は甚大な被害が起きた。

(要旨。原文を日本語に翻訳した)

油を流して焼夷弾

 この攻撃について、文学者で医師の呉新榮(1907―67)が日記のなかで言及しています。呉新榮が暮らす佳里は、鹽水から20キロ離れたところにあり、鹽水と同じように焼夷弾による攻撃を受けていました。

6月19日 晴
 昨日は上空通過の敵機だけでも数十機あったので、待避に忙しかった。幸に郡下には被害がなかったが、聞けば鹽水が酷くやられたとのことだ。

6月22日 晴
 午前10時過ぎから敵機が大(5、60機)襲撃して来た。防空壕に頑張ることほとんど2時間、流汗三斗ともいうべきだ。今日という日は住里街の最後ではないかと思はしめた。鹽水街のように油を流してから焼夷弾を落とすのではないかと思った。

 この記述が示しているのは、

  • 鹽水では
  • 1945年6月18日に
  • 焼夷弾による攻撃

 があったということです。

 では、米軍はどのような行動をしていたのでしょうか。戦時中の台湾についてまとめた書籍には、1945年6月18日について次のように記述されています。

 米軍は1945年6月18日正午前、87機のP-38で計165ガロンのナパーム焼夷弾を投下した。この攻撃で米軍側は4機のP-38を失った。ただ、この翌日、爆撃を受けたのは本来のターゲットである佳里ではなく、近隣にある塩水だったことが確認された。

 鹽水の百年防空壕は、こうした惨状を物語っていたのです。

〈出典〉

  • 呉新榮著・張良澤編『呉新榮日記全集8(1945―1947)』國立台灣文學館、2008年6月、台南、63―64ページ。読みやすさを考慮して字句を補正した。
  • 張維斌『空襲福爾摩沙/二戰盟軍飛機攻擊台灣紀實』(前衛出版社、2015年8月15日、台北。318ページ。原文は中国語。
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