2026
08.05

この場所まで、どうやって来たのか

八重山, 台湾, 未分類, 疎開, 鉄道

 台湾南部の美濃といえば、客家の里としてよく知られている。行楽で行ったことがあるという人もいることだろう。遅ればせながら、私は2026年7月27日が初めてだった。あいにく観光ではなく、大正期に建立された廣善堂という寺廟を訪れるためである。このお堂は、第二次大戦末期に行われた沖縄出身者の台湾疎開を考えるうえで、大切な場所なのである。

客家の里に疎開

 沖縄から台湾に疎開した人たちが過ごした地域は、台湾の西側を中心として広範囲に分布し、ある統計では、計79カ所を数える。このうち、旧高雄州1の旗山郡にあった疎開地3カ所は特異な場所だ。疎開者の出身地が県内40市町村に及んでいるのである。ほかの疎開地では、鳳山郡仁武庄の31カ所を除くと、ほとんどが一ケタだったことを考えると、その数の多さは際立っている。2

 なぜ、美濃だけそんなことになったのだろうか。残念ながら、その理由はわからない。

 あえて推測するならば、サイパンなどからの疎開と無関係ではないのではないだろうか。サイパンなどにいた沖縄出身者の出身市町村と、高雄州にいたと記録されている疎開者の出身地を照合することで、何らかの手掛かりが得られると思われるが、この点は別稿に譲りたい。

 旧高雄州には旗山の3カ所を含めて疎開地が5カ所あった。そのなかに、現在でも場所を特定できる疎開地が1カ所含まれている。それが廣善堂だ。

 廣善堂にいた疎開者たちの出身市町村の内訳は次の表に示す通りであった。

国頭郡188国頭村22
名護市2
本部町145
大宜味村11
金武村3
恩納村3
久志村2
中頭郡5宜野座村1
与那城村1
北谷村1
美里村2
島尻郡36伊平屋村3
摩文仁村7
糸満町17
粟国村4
具志頭村5
宮古郡伊良部村1
那覇市5山下町4
前島町1
八重山郡5石垣町5
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台湾高速鉄道の駅前からバスで

 廣善堂へ行くには、どのようなルートがいいのだろうか。

 事前に調べてみると、台湾高速鉄道(高鉄)の高雄側の終点となっている左営で、駅前からバスに乗ると、直行できることが分かった。実際に行ってみると、高雄・屏東方面に向かう観光客はすべて左営を乗り降りしているのではないかと思われるほどのにぎわいで、美濃方面に向かうバス乗り場にも列ができていた。廣善堂へは、その名の通り、「廣善堂」というバス停で降りて少し歩くことになるのだが、観光客が使うことも多い直行バスは停まらず、通過してしまう。これとは別に、途中まで高速道路を走り、山間部に差し掛かったところで各駅停車となるバスがあり、私はこちらに乗り込んだ。E25というバスで、旗山区から先は、すべてのバス停で乗り降りできる。

 バスは午前9時すぎに出発した。乗客は終始、20人に満たず、ゆったり座ることができる。見たところ、観光客はいない。50分ほどで旗山のバスターミナルに到着し、ここで大半が降りた。

 このあと、楠梓仙渓という川を越え、旗尾国小3というバス停に差し掛かると、そこは旗糖農創園区というリノベーションエリア。さらに15分ほどで廣善堂に着いた。左営からの所要時間は1時間10分ほどだった。

 その場所は、間近に山並みを望む静かな山村だった。バス通りを離れ、目指す方向へ足を向けると、コンパクトな廟宇が遠くに見える。うねるほどたっぷりな流量のある水路を越えて少し進むと、廣善堂に着いた。地図で下調べをして予測しておいた通りの、穏やかな風景のなかにある。よく晴れていた空に、少しずつ雲が広がり始めた。午後から雨という気象予報は、どうやら当たりらしい。3日前に屏東市内で買っておいた折り畳み式の雨傘は、かばんのなかに入れてある。

第二次大戦の痕跡

 この日は日曜日。お堂の前の広場には、何人かの住民が静かに腰掛けていた。日本統治期のころのことを知りたいと、声を掛けてみると、廣善堂主任委員の劉棋杰さんが応対してくれた。

「日本統治期に、第二次世界大戦のころ、ここに日本人がいましたか」

 と尋ねると、

 劉主任委員は、

「いました。日本の兵士がここにいました」

 と答えた。疎開者は民間人だったと思われるが、現地で記憶されているのは兵士たちの存在だった。

 お堂の敷地をぐるりと参観してみると、小さなくぼみが壁にぽつりぽつりと残されている場所があった。そばに添えられた説明書きには次のように書かれていた。

1945年、第二次世界大戦のときに残された弾痕4

 数えてみると、くぼみは6カ所あった。兵営として使われていたから狙われたのか。疎開者たちにも被弾のリスクがあったのか。あるいは、被弾した疎開者がいたのか。疎開者たちの暮らしについて想像をめぐらしてみたいが、手がかりはあまりに少ない。

シュガートレイン

 今、行楽者の視点でこの場所を歩くと、いかにも居心地がよい。疎開者たちがこの場所を目指していたころとはあまりに違い過ぎることだろう。戦争末期の統制された世の中を生きた人たちが、よそ者として、この村にたどりつくことは簡単ではなかったはずだ。

 昔の人は、よく歩いた。今では考えられないような距離を、子どもでもよく歩いた。そうはいっても、疎開者たちがすべて移動を自分の脚に頼っていたとは考えにくい。いったいどのようにしてここまでやってきたのだろうか。移動という側面は、疎開のことを調べるうえで常に気になる点である。

 私は高雄市歷史博物館を訪ねた際、移動に関する手掛かりを求めて、展示を眺めてみた。

 高雄で鉄道がどのように発達してきたかを示したコーナーのなかに、高雄周辺の鉄道の路線を示した地図があり、美濃は駅のひとつとして記載されていた。台湾製糖株式会社が敷設した鉄道路線に設置された駅だった。高雄駅の屏東寄りにある九曲堂から旗山を経由して美濃に至るというルートで、この路線は旗尾線と呼ばれた。美濃の2駅の先にある竹頭角まで行くと、そこが終着駅である。

 時刻表も展示されており、運行ダイヤを確認することができた。それによると、九曲堂を出る列車はすべて、旗山のひと駅先にある旗尾が終着点で、所要は1時間20分ほど。美濃へは旗尾で別の列車に乗り換え、15分余りで着く。ダイヤは旗尾での接続が考慮され、九曲堂から美濃まで1時間45分ほどで行けるようになっていた。旗尾には台湾製糖旗尾製糖所があり、旗尾線が沿線のサトウキビを集めて製糖工場に運び込むことを第一の目的としていたことを物語る。ダイヤの編成も、工場関係者が利用することを考えて組んでいたのだろう。私が美濃へ行くときに通りかかった旗糖農創園区は、台湾製糖旗尾製糖所をリノベしたものだった。

ローカルバスにかつての風景

 疎開者たちが台湾で過ごしていたころ、台湾新幹線などあるはずもなく、交通体系は今とはまったく異なるものだった5。美濃へ行くなら、九曲堂から製糖会社の鉄道を利用して、旗尾で乗り換えるべしというのは、当時としては地元の人たちにとってほぼ常識だったことだろう。疎開者たちは鉄道で高雄駅に着き、あるいは、船で高雄港に到着し、そこから鉄道で九曲堂まで移動して、台湾製糖旗尾線に乗り換えたのではないだろうか。少なくとも、疎開者を受け入れる側としては、そのように手配するのが自然だったはずだ。

 そうすると、私が左営からバスに乗り、高速道路を利用するルートで美濃に到達したことは、疎開者たちの足跡を追っているようでいて、実は当時とはかけはなれたことをやっていたことになる。

 廣善堂からの帰路は、高雄や左営へは向かわず、九曲堂を通るルートを選ぶことにした。小雨が降りだし、雨傘を差しながら廣善堂のバス停に戻った。時刻表を眺めると、次のバスはしばらく待っても来そうにない。美濃の市街地にあるバスターミナルまで歩き、来るときに乗ったのと同じ路線のバスで旗山まで戻った。

 旗山は、このエリアの中心となっている街。バスターミナルでは、高雄や左営へ向かうバスに長い列ができ、ここで暮らす人たちが高雄・左営方面と深くつながっていることが視覚的に把握できる。この地域を訪れる人たちもまた然りで、高雄・左営方面からアクセスしてくるのだ。美濃など周辺地域との間でも路線が伸びているほか、台南方面とを結ぶバスもあった。

 私はここから8010番というローカル路線に乗った。終点の鳳山まで行く間、九曲堂駅近くのバス停で降りることができる。旗山から乗り込んだのは、私ともう一人だけ。途中で有名観光ポイントの佛光山に立ち寄ったが、バス停で列をなす人たちは観光用の路線バスが目当てのようで、8010番に乗り降りはなく、停まることなく先を急いだ。

 九曲堂に着いて時計を確かめると、午後2時20分だった。午後1時25分に旗山を出てから55分かかっていた。台湾製糖の鉄道より30分ほど早く戻ってきたことになる。

日本統治期の産業基盤と台湾疎開

 最後にダメ押しのつもりで、九曲堂にある博物施設「臺灣鳳梨工場」(台湾パイン工場)に行った。6

 展示の中にこんな一節があった。

 九曲堂駅は、旗山・美濃地区と縦貫線を結ぶ重要な拠点であり、バナナなど特産の農作物は旗尾線によって港に運ばれ、海外に輸出されていた。7

 旗尾線はサトウキビや砂糖を運ぶためだけでなく、農作物の輸送にも使われた。高雄と美濃を結ぶ鉄道路線が充実していたからこそ、疎開者たちの滞在先として美濃が選ばれたと考えることができる。台湾では、鉄道網を張り巡らせることによってサトウキビを製糖工場に運び込み、製糖工場でつくられた砂糖を消費地へ運んでいた。このようにして発達した製糖業の鉄道網は、農作物全体の輸送ネットワークとなり、農業とは直接関係しない人も利用する交通機関に成長した。こうしたなか、戦時下では沖縄の疎開者たちが乗り込むことになった。台湾への疎開は、台湾で発達していた産業基盤と結び付くことで成り立っていたと考えることができるのである。

  1. 現在の高雄市と屏東県 ↩︎
  2. 「自沖繩縣及南洋群島避難至本省が難民統計表」(沖縄及び南洋群島からの台湾への避難民に関する統計表)、中央研究院近代史研究所檔案館所蔵、典藏號:LJK_06_05_0220848。二ケタの市町村から疎開していたのは12カ所の桃園郡八塊庄と11カ所の苗栗郡三叉庄のみである。 ↩︎
  3. 「国小」は「小学校」のこと。 ↩︎
  4. 原文は「民國三十四年二次世界大戰留下的彈痕」 ↩︎
  5. 日本統治期の鉄道については平井健介著『日本統治下の台湾 開発・植民地主義・主体性』(名古屋大学出版会/2024年)が「第6章 官業ー専売と鉄道ー」で「三 鉄道事業と滞貨問題」を設けている。 ↩︎
  6. 九曲堂はパインの産地。九曲堂駅前にはパイン生産者をデザインしたモニュメントがある。 ↩︎
  7. 原文は「大樹九曲堂車站是連接旗山美濃地區與縱貫線的重要樞紐,透過旗尾線將農特產例如香蕉運到港口出口到海外。」 ↩︎

 この記事の取材・執筆に当たっては、多くの方からご支援を頂戴しました。ありがとうございます。

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