07.31
こんな台湾を見てみたかった、と思いつつ・・・
石垣島に住んでいる台湾系の人たちと接していて、私がしばしば限界を感じるのは、この人たちが石垣島にやってくる前に台湾で経験していた暮らしについて、私は直接触れることができないと気付くときである。
台湾系の人たちが土地公祭や清明祭の墓参りで集まる様子は何度も取材してきた。ひとくちに石垣島に住民といっても、出身はさまざまで、台湾出身者はそのなかでも最大のグループのひとつだということは知識としては知っている。
しかし、この人たちが台湾で見てきたものや過ごしてきた暮らしの時間は、私は一切共通していない。だれかによって残された記録によって追体験するほかなく、この点が、八重山の台湾系住民のことを理解するうえで難関となっているのである。なにがしかの努力によって越えられるハードルというものでもない。それでも、手がかりを集めていくほかない。
戦後~1950年代の写真を見る
そんななか、新北市美術館で開かれている写真展「民間/攝影:紀實影像的敘事生成 Minjian / Photography:Documentary Vision and Its Realist Inflection」1は、実に示唆に富むものだった。
8人の写真家を取り上げており、来場者はその作品群を通じて、カメラが台湾社会の何を写し、レンズは台湾社会をどのように捉えたのかをたどることができるようになっている。このなかで、私が最も引き寄せられたのは、張才(1919~1994)と黃則修(1930~2014)の2人である。
張才は、その撮影手法は「複訪」という言葉で説明されていた。英語では revisitation。繰り返し訪れることである。時間の蓄積が生み出すアーカイブ的な鑑賞構造を通じて、写真を一度きりのカットから厚みのある社会的な記録に転換させたのだという。
同じ現場を何度も訪れ、変化していく様子を体感する営みは、写真家ならずとも大切なことだ。その場の空気を時の流れとして捉え、皮膚から吸収することができるからである。

張才の「複訪」
新莊大眾爺は張才の心をとらえたモチーフだったらしく、「複訪」、つまり、何度も訪れて撮影していたらしいことがうかがえる。
その練り歩き(繞境)の風景を捉えた作品「大眾爺繞境行列」は、牛車を先頭に続く練り歩きが、水を張った田んぼに沿った田舎道を行く様子を撮影したものである。牛が牽く車の様子は暗くてよく見えないが、目を凝らしてみると、乗っているのは歌仔戲の役者らしい人たちだと推測できる。そのあとを、謝將軍と范將軍に付き従う人々が後に続く光景だ。1949年から1956年の間に撮影されたカットである。
大稻埕の作品も多数展示されていた。「大稻埕霞海城隍廟祭」は、1946年から1956年の間の撮影。両側から低い軒が突き出た細い通りを、行列が進んでくる。背の高い謝将軍を手前に配置することで、立体感が際立つ。こんな低い家並みは、今、大稻埕に残っているのだろうか。
龍山寺の陰影
黃則修は龍山寺シリーズで知られるが、その前に、1946年の「被炸的天堂」を見ておこう。第二次大戦が終わった後、日本による台湾統治が終了した次の年に撮影された。このさらに翌年、二二八事件が起こるということはだれも知らなかったころの写真である。
龍山寺シリーズからは、「布袋戲的小觀眾」(1953年)と「布袋戲的大觀眾」(1952年)を見ておきたい。「―小觀眾」は、焼き込みの技術を駆使することで、小さな子どもたちの顔が平面的で無機質な存在として、幻想的に並ぶ。「―大觀眾」では、寺の境内に無数の観衆がいて、舞台に夢中になっている。舞台をそでからのぞき込む男達はこちらに背を向けている。
さらに、同じ龍山寺シリーズの「中秋夜祭」(1956年)も、私のお気に入りである。ろうそくの明かりのみで、供物に視線を向ける人々の表情をざらついた質感でもって捉える。供え物はバナナか何かだろうか。撮ることだけではなく、現像から焼き付けまで、写真を仕上げるための技術がそろっていてようやく実現できるイメージが焼き付けられている。
龍山寺シリーズは内容が暗すぎるという評されることがあったそうだ。これに張才自身は「確かに、二二八事件が起きた後、白色テロの最盛期における、暗鬱で無力な市民生活をありのまま写し取ったのだ」と述べたという。写真が影に満ちているのは、やはり影に満ちていた時代を見る人たちに伝えるための仕掛けだったのである。
台湾に戻れなかった人たち
これらの写真が撮影された時期は、1956年までである。この翌年、1957年の雙十節には、八重山に住む台湾系の人たち30人余りが参加しているが、このなかには、このとき戦後初めて台湾に帰郷したという人が含まれていた2。中華民国の台湾はこの時期までに、自国民であっても承認を得られない者は台湾に戻ることを認めない厳格な仕組みを作り上げていたという3。このため、当時の新聞報道から推測すると、1957年の帰郷は相応の準備期間を経て実現していた。
私は、張才や黃則修が写真として残した新莊大眾爺や大稻埕霞海城隍廟、龍山寺の風景に、かつて八重山の台湾人が見た景色を重ね、八重山の台湾人の内面に迫りたいと思った。この方法は、半分は間違いで、半分は間違いではない(正しいと言い切るほど、私には自信がない)。間違いというのは、戦前から八重山に移り住んだ台湾系の人たちは、このころは台湾にいなかった可能性が高いから、厳密には、この時期の風景を目にしてはいないからである。間違いではないというのは、この時期の台湾を経験した後、八重山に移り住んできた人たちは、こうした風景を見ていたかもしれないということである。
どちらであったにせよ、黃則修がその作品に焼き付けた陰影から「二二八事件が起きた後、白色テロの最盛期における、暗鬱で無力な市民生活」を読み取ることで、八重山に暮らす台湾系の人たちが経験したかもしれないことと経験しなかったかもしれないことを感じ取ることができる。そのためには、繰り返し足を運ぶこと、すなわち、張才の「複訪」をまねてみることである。
- 「民俗/撮影:フォトドキュメンタリーが生み出す物語」の意。 ↩︎
- たとえば、1957年10月9日付『琉球新報』夕刊3面の記事「双十節は母国で/特別機で25年ぶりに/八重山在住台湾出身者」は、八重山に住む台湾出身者37人が双十節に合わせて台湾に向かうことを伝え、「一行は戦後はじめてなつかしの母国の土を踏む」と書いている。1957年10月10日付『中央日報』4面の記事はこの37人に言及し、「そのうち、数人は琉球で30年余り生活し、その間祖国に戻っていなかった」(其中有數位旅居琉球達三十餘□未見返國祖國)としている。 ↩︎
- 鶴園裕基『「人の移動」の国際政治』(2025年3月、晃洋書房)参照。 ↩︎
※ この記事は、数多くのみなさまからの寄付によって取材し、執筆しています。


