2026
06.30

台湾でコスメが足りてなかったころ

台湾, 未分類, 沖縄

 1年ぶりに台中へ行った。米軍倶楽部だった施設で行われていたリノベーションが最終段階に入っていて、台中市政府のニュースではオープンも近いとのことだった。

 人々の往来という視点でかつての新聞を読み漁ってみたところ、この施設がある台中で米兵の一家とともに暮らしていた女性のことが記事になっていた。70年近く前のことである。1

「戦時体制で質素な身なり」

 台湾と沖縄の間では、1957年6月に金十丸が就航し、一般の人たちでも乗船できる航路が再開した。もっとも、漁民たちは台湾との間を行き来し、自力で往来する術を保っていたので、それが時に非合法とみなされることがあったとしても、こうした現状を「おおやけ」が追認したということもできる。

 記事が出たのは、金十丸の就航から4カ月余り後のことである。見出しは「化粧に憧れる台湾娘/戦時体制で質素な身なり」となっている。このフレーズから推測することができるのは、読者の関心が「台湾はどんな社会なのか」という点にあったということである。当時の台湾は戒厳令下にあり、その実像は外からではよく見えなかったのである。

 記事では、この女性が語った台湾の様子をおおむね次のように伝えている。

  • 台湾の人たちは日本時代を恋しがり、日本人に非常な好意を寄せている。
  • 25歳以上ならたいてい日本語が話すことができ、言葉の不自由はぜんぜん感じなかった。
  • 街には自転車の多く、自動車は少ない。
  • 戦時体制で衣類、化粧品などの輸入統制があり、外国製品が手に入りにくい。沖縄と比較して非常に地味な身なりをしている。特に若い女性は化粧品やきれいな衣類にあこがれているようだ。
  • 生活水準は沖縄と大差ないようだ。

 これは当時としては重要な情報である。台湾の今ばかりに目を向けがちになることへの、ひとつの戒めにもなる。台湾は、沖縄や日本とは異なる道のりを経て今に至ったということを思い出させてくれる、と言い換えてもいい。

米軍人一家と台湾へ

 それにしても、実情が見えづらい台湾に、金十丸で戻ってきた女性はどうやって足を踏み入れたのだろうか。記事に書かれていた内容はおおむね次のようなものである。

 「〇〇市の●●田●子さん(22)は、嘉手納飛行場勤務の▲▲▲▲さんの台湾転任で同氏家族と共に台湾へ渡ったが、那覇入港の金十丸で4カ月ぶりに帰ってきた。●子さんは、▲▲▲▲さん氏家族と共に台中市に住んでいたもの。」

 家事手伝いとして働いていた人が、雇用主の転勤に合わせて次の勤務地まで帯同し、引き続き家事手伝いとして働いていた。その後、雇用契約は終了した。▲▲▲▲さんは、台湾からさらに別の場所に異動することなったのか。事情はわからない。

 記事の主人公である●●田●子さんが住んでいた場所は台中である。ということは、雇い主は、嘉手納から台中の清泉崗空軍基地(CCK)に異動し、台中市内で生活していたのだろう。米軍が台湾にいたころ、CCKには将兵用の宿舎があった。あるいは、●●田さんは台中市内の将兵用住宅にいたのかもしれない。

 ●●田さんが寝起きした家はどこにあったのか、台湾の人びとの暮らしをつぶさに観察したのはどこだったのだろうか。コスメが足りてないという情報はどのようにして耳にしたのだろうか。

米軍関連施設のリノベーション

 台中市内の旧米軍倶楽部ではリノベーションが進められ、近々、台中市政府の公共施設「アメリカンビレッジ総合サービスエリア」(美村綜合服務園區)としてオープンする見通しだ。市政府は「部分的な保存・新旧の融合」をポリシーとして改修を行ってきた。このエリアには、親子館、公設民営方式の託児施設、女性活動拠点、世代間融合拠点、ボランティアセンターが設けられることになっている。2

 2024年3月12日に現地で工事の様子を見たときには、施設のエントランスが外から見える状態になっており、薄い色合いのタイルでなされた装飾が確認できた。(下の写真)

 その後、2025年6月15日には、タイル張りを覆うようにコンクリートの構造物が造られ始めていた。塗り固めてしまうのか、新たな構造物で外側からすっぽりと覆うのかはわからない。(下の写真)

 さらに2カ月半ほどが経過した8月27日には構造物の整備が進み、それでも、タイルは少しだけ見えていた。(下の写真)

 そして、2026年6月26日、完成間近の施設を見てみると、この新たな構造物には「聯勤台中招待所」3の文字が刻まれていた。タイルはうかがえない。(下の写真)

 「部分的な保存・新旧の融合」とは、当時の意匠を意識しつつ、新たなスタイルに仕上げるということなのかもしれない。1、2階には歴史展示エリアを設け、米軍が台中にいたころの暮らしを取り上げることになっているそうだが、元のタイル張りの外観はそのまま残されているのか気になる。

 1957年に台中にいた沖縄の女性はどんな風景を目にしたのだろうか。そのヒントが見つかる場所であってほしい。

  1. 1957年10月16日付「沖縄タイムス」夕刊3面。 ↩︎
  2. https://www.taichung.gov.tw/8868/8872/9962/3258523 ↩︎
  3. 「聯勤」は兵站部門のこと。聯勤台中招待所は米軍倶楽部を利用して1962年につくられた。 ↩︎
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