06.23
6月23日の前日に歩いた場所
2026年6月22日、雲林縣の山村を歩いた。濁水溪沖積平野の上流域である。邱永漢が1954年に発表した小説『濁水渓』が直木賞候補になったと言えば、分かってくれる人もいるかもしれない。
私は今、第二次世界大戦末期、台湾に疎開した石垣島出身の人を取材している。この人は、斗六で親戚宅に身を寄せたあと、母親が自分で住み家を探して林内の「キュウキュウリン」に移り、さらに「ココウ」に移動して終戦を迎えたそうである。「キュウキュウリン」と「ココウ」を特定することができれば、この人の疎開ルートを明らかにすることができる。そう思って、雲林縣の山村を歩いた。
「キュウキュウリン」は、地図を見てすぐに確からしい場所を探し当てることができた。台湾の中央研究院が公開している地図サイト「臺灣百年歷史地圖」で日本時代の地図を見ていくと、1904年の地図1に林内付近の地名として「九芎林」とあり、「キュウキュウナー」とフリガナがあった。「林」を「ナー」と読むのは、閩南語によるものだろう。現在も台湾鉄道の車内放送では「林内」の閩南語読みは「ナー・ライ」となっているし、台北駅の近くにある「樹林」も「ス・ナ―」と言っている。とはいえ、現地の内地人が「九芎林」を「キュウキュウリン」と読んでいたとしても不自然ではない。
というのが、私の推測である。
乾いた川で薪拾い
「ココウ」は少し難しい。私が取材している疎開経験者は、この場所に、水の流れていない川があり、その川幅が広大だったという趣旨の説明をしている。その場所で枯れ枝を拾い、薪にしていたというのである。
「ココウ」といえば、すぐに思いつくのは新竹縣の湖口鄉だが、雲林縣と新竹縣は距離が離れており、それこそ濁水溪を渡って、さらにその向こうの山間部を越えていかなければならない。遠隔地で身を寄せる場所を確保すること、また、親戚がいる斗六から遠く隔たったところへ移動することを、疎開者が選択する可能性はそう高くないのではないか。
では、「ココウ」はどこなのか。九芎林や斗六から付かず離れずの所に、手がかりを探してみると、1904年の地図に「咬狗」という地名に「カウカウ」というフリガナが振られているのが見つかった。この文字列をじっと見ていて頭に思い浮かんだのは、琉球の「おもろさうし」である。「さうし」と書いて、読み方は「そうし」である。これを応用すれば、「カウカウ」は「こうこう」となり、「ココウ」と記憶されることになったのではないか。
この推測をより確からしいものにしたくて、私は現地を歩いてみることにした。それは、水の流れない川があり、その川幅は相当に広く、薪拾いができるほど乾いているという風景を探すということである。
沖積平野の上流域
九芎林から咬狗まで歩いてくる間、5キロほどのルートで少なくとも2か所、川が乾いているところに橋が架かっている場所に遭遇した(斗六市と林內鄉の境界にある行章橋の大埔溪と榴東橋の外湖溪、橋の名前は表示のない斗六市水庫路がまたぐ樹湖南溪)。咬狗に着き、さらに隣村の梅林まで行き、この村に面して流れる梅林溪を見にいった。すでに述べた通り、このエリアは、濁水渓沖積平野の上流側に位置しているのだが、梅林溪の川筋は、虎尾溪という川につながり、虎尾溪はこの沖積平野を形成する河川のひとつなのである。

「咬狗」(ココウ?)のほうから梅林村に出て、土手から梅林溪のほうを眺めてみると、乾いた川床を挟んで向こう側には、木々が生えた平地が広がっていた。梅林溪には水が流れていた。しかし、河床が乾いてむき出しになった場所が広く、この点は証言と一致する。川幅はというと、梅林溪はそれほど広大ではなかった。吊り橋ですぐに行って帰ってこられる程度である。
これはどう考えたらいいのか。
梅林からさらに隣の村まで歩いてみると、30分ほどかかった。計画的な農地開発が行われているというよりは、畑として利用している場所が一部にみられるといった印象で、疎開が行われていた80年余り前、この空間を含めて、川幅が相当に広いと記憶されているのではないか。
6・23とは異なる形で
以上の文章は、雲林縣の踏査行について記したメモである。この疎開者が8・15を迎えた「ココウ」という場所は、おそらく咬狗であろう。今のところ、私の推測ではそういうことになる。私がこの文章を書いているのは6月23日である。沖縄は「慰霊の日」だ。台湾にいた疎開者はその後、8月15日に終戦という節目を迎え、さらに出身地の島へ帰るために引き揚げることになる。6・23とは質も時期も異なる形で戦争と向き合っていた。
その形を具体的にしたくて、私は6月22日、雲林縣を歩いた。
午前9時半ごろに林内駅を出発し、旧林内神社に立ち寄った後、九芎林を訪問し、途中でセブンイレブンで20分ほど休憩した後、さらに歩いて斗六市に入り、咬狗まで歩き、その先の梅林では梅林溪を眺め、まだまだ歩いて、古坑鄉新庄に到達した。ここで台西客運の路線バスに乗り、斗六駅に戻った。実は、セブンイレブンでウーバー・タクシーを頼み、咬狗までは歩かずにいくつもりでいたが、サービス提供の範囲外だったことから、歩くことにした。咬狗が終戦の場所かどうかはともかく、疎開者たちが移動のためにどこまでも歩いていたことそのものは体感することができた。
- 日治二万分之一台湾堡図(明治37年)1904年 ↩︎


