2026
06.20

データでたどる台湾への疎開

八重山, 台湾, 引揚, 未分類, 疎開

台南/麻豆の八重山人

 台南の麻豆に住む郷土史家が2006年6月17日、第二次大戦中に沖縄から疎開してきた人がどのような状況にあったのかを示す資料をまとめました。そのなかに示された表を見ると、麻豆には沖縄から314人が疎開し、このうちの35人が死亡し、また、新たに7人が出生し、終戦後には最終的に288人が引き揚げていったことが分かります1

 詳しい内訳を表に示します。麻豆は、体験者の記録によってまとまった数の八重山出身者が疎開していたことが知られています2が、具体的な数字からもその多さが分かります。

地域寄留者数(うち死亡者数)出生者数引揚者数
八重山郡24118227
宮古郡541344
島尻郡1311
首里市
那覇市
沖縄県計31433288

 この表の作成者は詹評仁氏です。詹氏はなぜ疎開者について調べることになったのでしょうか。

 私は石垣島の新聞社で記者をしていたころに台湾への疎開について知り、2005年から本格的に取材を始めました。その記事を読んだ地元の旅行代理店から、疎開体験者が台湾を訪問する旅行を企画したいとの相談を受けました。この疎開ツアーは2005年11月に初めて実施し、翌2006年6~7月には第2弾を行いました。

 このツアーは、ツアー参加者から行ってみたい疎開地の情報を教えてもらい、それを手がかりにできる限りのことを私が調べ、一緒に訪ねてみるというものです。第2弾の参加者に麻豆に疎開したことのある人たちがいたことから、私は麻豆について調べることになりました。その際、地元の人たちとやり取りをすることになり、詹氏が私たちの麻豆訪問を聞きつけ、麻豆に残されている寄留簿(転居に関する資料)を調査してくだったのです。

きっかけは2006年の台湾ツアー

 こうした基礎資料に加えて、このころは、沖縄からやってきた疎開者の姿をその目で見たという人たちがご健在で、疎開者の足取りをトレースすることができました。石垣島から麻豆に疎開し、その後、麻豆から離れた別の場所で亡くなったケースでは、亡くなったその場所をほぼ特定することができ、ツアーに参加した親族が線香を手向けるという一幕もありました。

 そして、こうした基礎資料があるおかげで、今、そのころのことを振り返るときに、考えるための目安とすることができます。麻豆には当時、明治製糖の製糖工場がありましたが、その施設に身を寄せた石垣島出身の女性(60代)が亡くなっています。この女性の死は、平和の礎には刻銘されていないものですが、こうした出来事を取材する際にも、麻豆で亡くなった疎開者が18人いて、そのうちの一人がこの女性だと位置づけることができたのです。

www.okinawatimes.co.jp

 明治製糖の麻豆工場は、今はリノベされて總爺藝文園區として公開されています。近くにある幹線鉄道の駅までのアクセスとなっていた製糖鉄道の蒸気機関車も展示されています。このような空間から当時の状況をイメージしようとするとき、基礎的な資料に示されたデータが補助輪の役割をするのです。

tyart.tnc.gov.tw

  1. データはほかにも明らかになっている。「沖繩及南洋群島避難臺灣難民統計資料」は1945年9月末現在の疎開者の状況を示しており、麻豆街にいた疎開者230人の内訳は、八重山郡石垣町213人、宮古郡平良町17人だった(中央研究院台灣史研究所檔案館、識別號:LJK_06_05_0220848)。 ↩︎
  2. たとえば、桃原幸「勝ちいくさを願って子に命名」石垣市史編集室『市民の戦時戦後体験記録 第一集』石垣市役所、1983年、35~38ページ。正木譲「防空壕の近くに爆弾が落ちて、大きな弾痕ができたこともあります。」赤嶺守編『「沖縄籍民」の台湾引揚げ証言・資料集』琉球大学法文学部、2018年、66~69ページ。 ↩︎

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