2026
06.15

台湾からサトウキビを刈りに来た人たち

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 沖縄でキビ倒しを手伝うため、台湾からたくさんの人が働きにきていたことがありました。1960年代から1972年までのことです。

 中央研究院近代史研究所の檔案館では、最後の年となった1972年に、与那国島や南北大東など沖縄県内の5工場で働くことになった台湾人700人分の名簿を閲覧することができます1。その居住地を台湾の郷鎮市區(日本の市区町村のようなもの)別に分けてみました。人数が多い順に5位までを列挙すると、次の通りです。

郷鎮市區人数
彰化縣大城郷105
彰化縣芳苑郷80
嘉義縣大林鎮69
彰化縣二林鎮63
彰化縣埔鹽郷48

 3位の大林は、地域の人たちや研究者の取り組みが進んでおり、体験に関する分析や記録、継承が進んでいます2

 注目したいのは、上位5地区のなかで4地区を占めている彰化県です。計490人と最も多く、名簿全体のちょうど7割に達しています。

 私は、この傾向に既視感があります。戦前の1930年代以降、台湾から石垣島の登野城嵩田地区に引越してきた人たちについて調べたところ、確認できた457人のなかで最も多かったのが彰化県出身者だったのです3。人数は237人で、全体の7割とはいかないまでも、過半数を占めていました。

 1972年の台湾は、中華民国期の戒厳令下にあり、1930年代の日本統治期とは状況が違います。

時代を超えてサポート

 1972年の場合は、沖縄で生じていた人手不足を埋めるために、高いスキルを持った台湾の人たちが支援しにきたものです。台湾の中華民国と琉球政府の間で取り決めを行ったうえでのことです。一方、1930年代以降のケースは、日本統治期の台湾で缶詰パインの業界や缶詰に用いる缶の供給システムが日本本土の資本主導で再編され、台湾の地場資本が行き場を失ったところ、新たな活路を求めて石垣島で農業開発を行い、その担い手となる農家が石垣島に渡ってきました。よく知られているように、石垣島の特産品となっているパイナップルは、このときに台湾から持ち込まれて土台が築かれています。

 こうした相違点のなかで共通項を探るとすれば、台湾の農業地帯が労働力の供給源になっていたという点を挙げることができます。そして、石垣島など沖縄側では、台湾からやってきた人たちの手を借りることによって、農業を続けることができたのです。その際、台湾側でサポートの役割を担った主要な地域が彰化県でした。

 台湾は、特に農村部はバスの本数もそう多くなく、訪ねるのであれば、あらかじめよく計画を練っておく必要があります。これは彰化県の農村部にも当てはまります。だからこそ、行くべき価値があるというか、データを頭に畳みこんでからいってみると、どこまでも広がるだだっぴろい農地がなんとも意味深い風景に映るのです。

  1. 「中琉貿易」中央研究院近代史研究所檔案館、館藏號11-01-02-13-01-014、206~290ページ。 ↩︎
  2. 平岡昭利「南大東島における甘蔗農業への外国人労働力の導入と展開」『地理学評論』(51-4)、1978、318~326ページ。邱琡雯『離・返・留・守 : 追尋一九六〇―七〇年代沖繩的臺灣女工』(春山出版、2020年)、邱琡雯『出外 台日跨國女性的離返經驗』(聯經、2013年)。 ↩︎
  3. 松田良孝「植民地統治期台湾から石垣島名蔵・嵩田地区への移動について:石垣町役場作成の寄留簿の分析を通じて」『移民研究』第9号、2013年、1-18ページ。 ↩︎
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