2026
06.05
有村産業のフェリー「飛龍」船上から眺めた台湾島=2006年6月27日

やっとの思いで行き来していたころ 八重山~台湾

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有村産業のフェリー「飛龍」船上から眺めた台湾島=2006年6月27日

 スマホをなくしたら、知り合いと連絡が取れなくなる。おうちの固定電話しかなかったころを知っているのに、スマホがない生活なんて、もう考えられない。

 あの歌なんだっけ?と思ったら、CDを持っていてもサブスクを頼る。

 だいたいそんなものである。

 沖縄の石垣島と台湾の間で、フェリーの航路が復活し、高雄との間を新たな航空路線が結ぶといったニュースに接していると、石垣島と台湾の間を行き来することがたやすく感じられて、そう簡単に行き来することができなかった時期があったことを忘れそうになる。

 もっとも、復帰前の石垣島や西表島では、夏場に台湾の人たちが働きに来て、パイナップル工場の作業に加勢することがあったので、八重山にいると、台湾との行き来に難しさを感じる機会はそう多くなかったのかもしれない。そのころの八重山は、パインの缶詰製造が盛んに行われていて、パインの実を覆うぼこぼこした皮をうまく剥くスキルが求められていて、こういった点で高い技術を持った台湾の人たちが働きに来ていた。人手が足りないところを補ってくれたうえに、スキルの点でも沖縄のパイン産業が助けられていた。1960年代から1972年までのことである。

スキルを持った台湾の人たち

 台湾から働きにきた人たちからすると、台湾で働くときよりも割のいい給与をもらえるというメリットがあった。当時の沖縄の通貨はドルだったという点もインセンティブになったようだ。ウイン・ウインの関係ということもできるかもしれない。

 ただ、先日、台湾のある町で地元の人が語る体験談に耳を傾けているうちに、石垣島で聞いた、忘れかけのエピソードを思い出し、アングルを変えてみなければならないと思わされた。

 それは、台湾から働きにきた人たちが、行方知れずになっていた人たちを探すうえで、一定程度の役割を果たしていたのではないかということである。しかも、その役割は無視できない程度に大きかった。というのも、台湾の人たちはその当時、簡単に出国することができない状況に置かれて、行方知れずの人を探したくて海外に出ようとしても、そうやすやすとはいかなかったのである。

 今回話を聞かせてくれた人は、終戦直後に生き別れた肉親を探し当てたという経験を持つ。その肉親のことは、台湾から日本に向かったことはわかっていて、伝手を頼って日本の新聞社に肉親の写真を送り、「尋ね人」の記事を書いてもらったそうだ。その後、台湾の農村地帯から沖縄へ働きにいった人が沖縄でその肉親を見かけ、連絡が取れたというのである。

尋ね人を探す

 このエピソードだけならば、偶然の出来事だと言えなくもない。しかし、私は、台湾の働き手が「人探し」に絡んだケースをほかに2件耳にしている。どちらも、当人たちが公(おおやけ)にしたくないと考えているエピソードが関係していて、たまたま、人間関係のつながりから取材者である私の耳に入ったケースだ。だから、あわせて計3件だからといって少ないとは言い切ることができない。似たような事情を抱えた人は静かに沈黙しているケースがほかにいると考えて差し支えないのではないか。そんなふうに考えるうちに、台湾から働きにきた人たちが人探しに一役買う意味を、もう少し積極的に受け止めておいたほうがいいのではないかと、私は思うようになっている。

 後者の2件はいずれも八重山に関連するもので、1件は、台湾の人が、沖縄へ働きにいく人に、沖縄へ渡った肉親の人探しを依頼したケース。もう1件は、八重山に住む台湾系の人が、台湾から沖縄から働きにきた人と知り合い、台湾に住む肉親を捜してもらったケースである。

 台湾側の視点でみると、これら計3件はすべて、台湾からの出国が厳しく制限されていたころに起きている。沖縄へ働きにきていた人たちは当時の台湾では例外的な存在で、琉球~台湾間の取り決めに基づいて台湾と沖縄の間を行き来していた。今なら、当事者が自分で探しにいくところだが、台湾から海外に渡航できるということが特別で、それそのものが価値を持っていた。

台湾の年表

 沖縄・日本側の事情についていえば、この時期は、沖縄の施政権が日本に返還される1972年5月を控えた時期に当たり、さらに、1972年9月には日本と中華民国(台湾)が断交する。日台関係や、米軍統治と沖縄といったフレーズは今も広く知られているが、そのとき台湾がどのような状況に置かれていたのかという点については、関心を維持するにはそれなりの努力を要する。1972年を挟んで戒厳令が続き、総統の直接選挙が実現するにはさらに20年以上待たなければならなかった台湾の社会には、目が向きにくい。

 私が接することができた3件の人探しは、台湾の人たちやその関係者がかかわっている。これらの人々は、日本のマジョリティではなく、沖縄のマジョリティでさえない。そんな状態だからこそ、あえて、あのころ、台湾から海外へ出ていくことがいかに大変なことだったのかという点にフォーカスすれば、台湾からやってきた働き手のイメージは「沖縄の人手不足を解消した人たち」という枠から拡張し、台湾に目を向けるための「窓」は複眼的に増えていく。

 八重山と台湾の間は交通の便が良い。そうであればこそ、不便だったころにこだわっておきたくなる。

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