2026
05.16

2000年フェリーの旅

八重山, 八重山の台湾人, 台湾, 未分類, 沖縄, 牡丹社

 助手席に座ってトラックに揺られながら、たばこを一本勧めてみると、運転手氏は、自分のたばこを手に持って見せながら、「要らない」という身振りをした。そして、自分のそのたばこを一本抜き取り、私に向かって勧めてきた。これが運転手氏の流儀ということらしい。遠慮するのもヘンなので、断らずに好意に甘えることにした。台湾の言葉は習いたてで、流暢におしゃべりをするということもできない。私は、ライターは自分で持ってきたものを使い、助手席で一服することにした。

 たばこのやりとりでコミュニケーションを取るなんて、時代がかった感じがしないでもないが、今でも、たとえば台湾のいなかの廟に行ったときなどに遭遇することがある。私のトラックのエピソードは21世紀の出来事である。2000年10月1日、台湾島の中で一番南にある屏東県で、私はトラックに乗せてもらっていた。この前の日、台湾の高雄に向かうフェリーのなかで、台湾出身のAさんからこの地域に「琉球人の墓」なるものがあると聞かされ、「沖縄と台湾の関係に興味があるなら、行ってみたらいいよ」と勧められたのであった。

 Aさんが言ったのは、車城郷統埔村にある「大日本琉球藩民五十四名墓」である。今ならそうと分かるが、このころは理解に欠けていて、やみくもに先に進むばかりだった。こんな状況で、路肩に駐車中だったトラックの運転手に声を掛け、助手席に収まることになった。

 もとからヒッチハイクで出たとこ勝負の旅をしようと思っていたわけではない。トラックに乗せてもらうまでには、いきさつというものがある。説明しておこう。

 このころ、石垣島と台湾の間を結ぶ国際航路のフェリーが運航していて、筆者は石垣島を午後3時に出港する有村産業のフェリー「飛龍21」に乗船した。石垣島から台湾島までは200キロメートル余り離れており、このフェリーは石垣島を出た後、台湾島の沿岸を時計とは反対周りにぐるりとたどり、次の日の夜明けに高雄に到着した。言わずと知れた台湾南部の主要港湾である。

 読者のみなさんはご存じだろうか。石垣島には、台湾出身の人たちがたくさん住んでいて、島に溶け込みつつ、時に台湾の言葉をしゃべり、台湾の風習にのっとって年中行事をしたりしながら暮らしている。石垣島と台湾を結ぶフェリーには、しばしば、石垣島に住む台湾出身者が客として乗り込んでいた。私に「琉球人の墓」を教えてくれたAさんもそのお一人である。

 このとき筆者が台湾行きのフェリーに乗ったのは、別の目的があってのことなのだが、先を急ぐ旅でもない。Aさんとはもともと取材で顔見知りだったこともあり、お勧めに従って「琉球人の墓」へ行ってみることにしたのである。

 21世紀の旅とはいえ、今から20年以上前のことである。旅の仕方も随分と違う。思い返してみると、自分でも信じがたいことだが、高雄に着いた後で最初に関門となったのは、日本円を台湾元に両替することだった。台湾行きの準備をしていて、旅行ガイドを調べてみても、両替の情報は空港のことばかりで、はっきりとした情報は書かれていなかった。旅のメモを読み返してみると、張本さんほか、石垣島の台湾出身者何人かがフェリーに乗っていて、話を聞いてみても、やはり、港には両替ができる場所はないということだった。この当時、石垣島の金融機関でも台湾元に両替してくれる窓口はなく、事前に準備していくこともできない。

 フェリーのなかで、台湾出身者のBさん(女性)が声を掛けてきた。高雄で税関検査を受ける時、段ボール箱をひとつ持って降りてほしいというのである。フェリーには、沖縄から台湾へ、また、台湾から沖縄へと、生活雑貨や衣類を運び、着いた先の地域で売りさばいたり、仕入れをしたりしながら生計を立てている人がいた。「担ぎ屋さん」と呼ばれる人たちで、Bさんもその一人である。後で聞いた話だが、「担ぎ屋さん」たちはたびたび、船で一緒になった顔見知りの人に頼んで荷物をいくらか代わりに持ってもらうということをやっていた。持ち込む荷物が多すぎるとなんらかの理由でストップを掛けられたりするのか、税関の担当官からなんらかのチェックを受けたりするということなのか、とにかく、面倒を避けようとして荷物をだれかに持ってもらうということが行われていたようだが、事情はよくわからない。知らぬ間に禁制品の運び屋をさせられていたという話も聞かないので、大事(おおごと)にならない範囲で荷物をスムーズに通すための、庶民による互助的な方法だったのだろう。筆者と似たような体験をした人を何人か知っているが、いずれも、旅のちょっとした思い出話といったカジュアルなエピソードとして語られている。

 筆者は、深く考えることなくBさんの頼みを引き受け、何ごともなく税関検査を通り抜けた。タクシーで高雄駅まで行くというBさんは、私に便乗するように言い、ついでに両替をしてくれることになった。Bさんは駅前の公衆トイレに行くと、筆者から1万円札を受け取り、女性用トイレに入っていった。しばらくして出てくると、筆者に素早く台湾元を手渡した。人前で現金をやりとりすることがよほどはばかられるらしい。高雄から北上するというBさんとはここで別れた。「琉球人の墓」へ向かうには、南下するバスに乗らなければならず、筆者はバスターミナルへ行くのである。Bさんから受け取った台湾元を確かめてみると、2900元あった。

 なんとか台湾元を手に入れた筆者は、いよいよAさんご推薦の「琉球人の墓」を目指す。石垣島から持参してきた台湾のガイドブックを開いてみると、台湾の主要都市を結ぶバス路線のことは取り上げられている。張本さんの説明は、「車城」という場所まで行き、そこから15分ほどのところに「琉球人の墓」はあるというものだった。高雄のバスターミナルで掲示板を眺めたりしながら考えてみたところ、「中興號」と名づけられた恒春行きのバスが車城を通っていくことがわかった。恒春は、国際的なリゾート地「墾丁」の入り口として知られ、日本でもヒットした台湾映画「海角七号」(2008年、魏徳聖監督)のロケ地にもなったので、映画好きの人なら行ったことがあるという人もいるかもしれない。しかし、筆者は、フェリーの船内でAさんとおしゃべりをしていて、お連れ合いの出身地として恒春のことをまず知ることになった。台湾のことを知ろうと思ったら、インターネットで検索したり、関心を持ったジャンルの本を読んだりするというのが普通の方法に違いないが、筆者の場合は、石垣島に住む台湾出身の人たちとしゃべりながら、台湾への入り口を広げ、少しずつ台湾の中に入っていったようなところがある。石垣島に住む台湾系の人たちと出会い、この人たちの経験を聞いたり、この人たちの五感をお借りしたりしながら、台湾を理解していった。筆者にとって、石垣島の台湾人たちは、台湾へと誘う先生たちであり、学校や教科書と肩を並べるぐらいの存在感を持っている。

 「陸続き」という言葉があるが、筆者はその向こうを張って、「海続き」という言葉を意識していきたいと思っている。無論、筆者の造語に過ぎないが、石垣島に住んでいる台湾出身の人たちは、今住んでいる島と自分の出身地をフェリーで行き来しながら、無意識のうちに「海続き」の往来を続けていたといえるのではないか。石垣島と台湾が隣り合っていることは、地図を見れば分かるが、この距離感を自分のものにするには、自分で船に乗って海を渡ってみるのが一番だ。筆者は、ゆらゆらと波打つ海続きの膜に浮かびながら、台湾の人たちの間に紛れ込み、「琉球人の墓」を知った。海でつながれた二つの島を行き来しながら、台湾に近付いていったのである。

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